2011年11月20日

2011 長沙旅行 #5 鳳凰へ 続き


鳳凰二日目。
マイクロバスに乗せられて苗族の博物館へ。だがはっきり言って何も覚えていない。
この日はあまりいい日ではなかった。

博物館の前に並ぶ土産物屋。色彩豊かな衣装や小物。

博物館を出ると裏手には山が。「千と千尋の神隠し」のトンネルの向こう側のような、時が止まったような空間だった。 

(左)屋台で売っていた揚げパンのようなもの。よもぎとあんこ。

行きのマイクロバスの中ではガイドさんが苗族についての説明をしてくれ、民謡を歌ってくれてみんなで大合唱をしていたのに、WJはひとりしらけているようだった。博物館では苗族の歴史や信仰についての説明、衣装や装飾品などの陳列等があった。私がそれらをしげしげと見つめながら写真を撮りまくっていると、「そんな写真に何の意味があるのか」「何が見たくてここまで来たのか?」としきりに聞いてきた。

それで私は途方に暮れてしまった。

知らない土地に行き、そこで会った人たちと話したり食べたりする。そんな当たり前の旅の情景の中に思わぬ出会いや胸を揺さぶられるような経験があり、旅が作られていく。私はその過程そのものが好きで旅行をする。


***

数年前に韓国の友人を訪ねてソウルへ遊びに行ったときのこと。韓国人の友人が友達2人私をダッカルビ屋に誘ってくれ、私たちはテーブルについた。
ウェイターが目の前で調理してくれ、もういつでも食べられる状態。いい匂いも立ちこめている。でも誰も箸を付けず、みんなおしゃべりに夢中になっている。
初めに食べ始めるのは気が引けたが、お腹が空いて空いて仕方なくなった私は何気なく箸を取りダッカルビに手を伸ばした。

その瞬間。今までおしゃべりに高じていた友人たちが一斉に箸をとり、料理のほうは見ないまま、一斉にダッカルビに箸を付けた。

全身に鳥肌が立った。
彼女たちは遠方からのお客である私が料理に箸を付けるのを待っていたのだろう。誰も何も言わない、口に出して料理をすすめることもしない、でも私が食べ始めるのを待っていて、それから箸を付けた。それがその国の文化であり暗黙の了解で、私に対する敬意の表し方だったのだろう。
何も気を遣うことのない、仲の良い友人。若者としての普通の会話をして笑い合う。それぞれの国の習慣や礼儀についてなど、とりたてて話したこともなかった。でも彼女たちの中には私とは全く違う価値観が脈々と流れている。それは探ろうと思って探れるものではないし、仲の良い友達とはいえ一生知らずに終わってしまうことかもしれない。でもこんな些細な食事の場でそれを垣間見て、驚きなのか感動なのかよく分からない、ものすごい衝撃が走った。

旅行に出るとそのような衝撃をたくさん受ける。自分の住んでいた世界がいかに狭くて、外にはいろいろな価値観が存在するのだと気付かせてくれる。それを経験するのが私にとっての旅の醍醐味だ。

***


でもそれをWJに伝えると、「経験しようと思わなくても、驚きはいつでも経験する。でもそれは目的とは違う。自分がそこに行かなければならない理由を持たないといけない」と一蹴された。彼が言うに、どこかに行く際には自分の探したいストーリーがあらかじめあって、それについて事前調査をしておき、その場所に来たらそれを自分の目で確かめるのだという。自分の中にストーリーがないと、どこに行って何を見てもそれを本当に見ることができないばかりか、それが本物か偽物かさえ判断ができないという。

WJの言うことはいちいち正しくて、私はとても歯がゆかった。なぜ鳳凰に行きたかったのか、一生懸命理由を探したが、見つからなかった。動機はといえば、そこが素敵なところだと人から聞いたこと、旅行雑誌で幻想的な写真を見たことだ。思えば私が旅行の目的地を決めるのはいつも些細なことが理由だ。誰かが言った一言であったり、旅行中に出会った人に付いていくこともある。
でも自分の中のストーリーといったら・・・?

沱江で洗濯をする女性たち

帰りのバスは高速道路が事故か渋滞かということで下の道を通り、行きよりも長くかかった。15:30に鳳凰を出て、23:30に長沙に着いた。

何日か経って、WJは「結果的に鳳凰に行ってよかった。有意義だった」と話していたが私の頭の中はずっと回っている。
私の旅の目的は何なのだろう?なぜそこに行くんだろう?





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